正論を言うことが正解とは限らないと分かってはいても
道理にかなった「正論」を発することが、その場の「正解」とは限らないことって多々ありますよね。
正論よりも、相手の気持ちに寄り添った言葉が求められる場面です。
それなのに私は、相手の気持ちや場の空気を考えずに正論を言ってしまうことがよくあります。
昨日は夫と二人、家でのんびりしていました。夫も私もそれぞれ別のゲームに夢中。
2時間ほどゲームをしていたところ、夫が急に「わーーーー!」と叫び出しました。
何かと思えば、ゲームが処理落ちをして強制終了してしまったとのこと。
途中で保存していなかったため、約2時間のプレイが水の泡になってしまったそうです。
そんな夫を見て私が思うのは「こまめに保存しておけばよかったのに」ということ。
でも、落ち込んでいる夫に対してそんな正論は酷ですよね。
だから、自分の考えを飲み込んで、「ショックだよね」と夫の嘆きに同調する言葉をかけました。
その夜は二人で野球中継を観ていました。二人とも同じ球団のファンです。
途中、夫にとって納得のいかない判定…私たちの好きな球団に不利な判定を審判がしました。
(Twitterを見てみると、解説者やその球団のファンにも納得のいかない方が多かったようです)
テレビに向かって憤慨する夫。
その姿を見て私が思うのは「こっち側有利な判定をされる時だってあるんだからお互い様でしょ」「こっち側有利な判定の時は何も言わないくせに、不利な判定のときばかり怒るんだ」ということ。
しかし、以前同じようなことがあった時にこれを口にしたら夫に激昂されたことを思い出しました。
「場の空気を読まずに正論ばかり言うなんて信じられない」と。
私の考えは正論。
でも、ファン心理としては、自分の好きな球団に不利な判定があったら怒りたくなるのは当然。
だから、一緒に怒るまではしないにせよ、そんなファン心理を逆撫でする正論は言わない方がいいのでしょう。
夫にはよく、こうも言われます。
「あなたは子どもに対しても理詰めで迫るの?」
理屈理屈正論正論で迫られたら窮屈だろう、と。
まぁそうですよね。
相手が子どもであっても大人であっても、まず相手の気持ちに寄り添うことが大切なのは分かっています。
(仕事で子どもを相手にするときはできていた(つもりだった)のに、私生活だと難しいですね)
自分のことは「すぐ感情的になる人間」だと認識しています。
それと「正論を振りかざす」ことは反対のように感じますが、正論ばかり言ってしまうのも「正論を言いたくなる感情を制御できていない」という意味では「感情的になっている」のだと考えています。
正論に限った話ではありませんが、何か言いたくなったときに「一旦立ち止まって考える」習慣をつけたいところです。